楽をする、自分の機嫌がよくなる道を選ぶのは逃げではない
自分を労う前は、嫌なことを克服しなくてはいけないと思い、嫌な思いをするのをわかりつつ、喧嘩上等な心持で生活をしていました。
例えば、
・接客がぞんざい、挨拶をしない店員がいるコンビニに敢えて行く
(コンビニなんて、たくさんあるのに)
・嫌な思いをさせられた人、高圧的な人などと仲良くなろうと努力する
(話しかけたり、好かれようとか思って相手に合わせるけどやっぱりムカつくこいつ!という感情しか生まれない)
試練、とか苦難とか
そういうものを乗り越えないと幸せになれない。
乗り越えられない自分はダメだ。
弱い人間だ。
だから、あえて嫌な人、嫌な所へ行く。
そんなどM全開な生活をしていたわけですが・・・。
今は、自分を労うとともに、
どうしたらご機嫌でいられるか?
機嫌のいい自分でいられるかをベースに行動しているため
自分からそんな嫌な思いをするところへ行くのをやめました。
接客、愛想の良かったコンビニを選んで行って、気持ちよくお会計をして出てくるだけでも、愛想の悪い店から出てくることに比べたら全然気分は違うものになります。
愛想がいいというのは、気持ちよく挨拶とかしてくれるところです。
別にVIP待遇してくれとかそういうことではないです。
わたしが嫌だと思った対応は、レジに行っても従業員同士が話に夢中だったり、レジをしながら他の従業員と誰かの悪口を話していたり。
わざとらしく視線を飛ばしてくる店員だったり(商品選び中)
挨拶をしないとか。
ちょっと勘違いしている若い子とか。ナルシストみたいな。
タメ口の店員とか。
書いていたら腹が立ってきたのでやめますが(笑)
昔接客をしていたことがあるので、ちょっと細かすぎるんじゃない?そのくらいいいんじゃない?と思われるかもしれませんが
嫌なものは嫌。
だって、態度のよろしくないお店があって、逆に気分のいいお店もあって。
どちらもコンビニで。
同じ商売をしているのならば、入って気持ちのいいお店に入りたくなるのはしょうがないと思います。
脱線しましたが、
自分が上機嫌でいるために、嫌なこと嫌な人からは全力で逃げる。
逃げてもいいんだ。
これが当たり前の選択なんだと思えるようになりました。
労う前は、常に全員になめられないように喧嘩腰で生活をしていました。
少しでも隙を見せたら馬鹿にされる。
だから、ずっと喧嘩腰。
視線を感じたら、睨み返す。
視線を外すまでそらさないとか。
全員に喧嘩を売る感じで生きてました。
どこのヤンキーだよっていう。
それでもハートはガラスのようにもろい(笑)
だからずっと気が張っていて、誰が自分を馬鹿にするのだろうかと監視していて。
いつも疲れていましたし、楽しくなかった。
こんな状態でずっと生きていくのは辛いなと思っていました。
今日も、毒舌吐いた自分が許せなくて。
「ああ、またいらんこといったわ~。」
って、後悔しました。
いつも後悔だらけなんですけど。
でも、まあ、しょうがない。
口が悪い自分を自覚しているし、一言多いのも知っているし。
まあいいか。
それで、他人にどう思われようがいいかと。
結局は、他人に「あの人は性格悪い」と思われるのが、評価が下がるのが怖かっただけで。
評価なんて、人の価値観によって変わりますし。
そんな自分も、今日は違う人にお礼といってお菓子を頂いたりして。
評価って、人によって違うんだなとそう実感。
他人から得られる評価なんてあてにならないですよね本当。
場所が変われば、評価が上がる人もいるし、気分によって変わるときもあるし。
そんな他人の評価よりも、自分で自分の行動を認めてあげたほうが、自分らしさが確立していっていいのかと思います。
まだまだ先は長いですけれども、いい気分で過ごせるような選択をしていきたいですね。
今日も一日お疲れ様でした。